虚無の話

記憶にある限りで初めて虚無を感じたのは、中学3年生の頃だった。

 

私はそれまで、ごく普通の、そこらへんにいる、部活を頑張る中学生だった。普通の、普通のだ。親はよく「昔のあんたは頑張ってた」というので、そういう、普通のことが頑張れる人間だったということであると思う。小学三年生の時、今住んでいるところに引越しをした。祖父の家で父の実家である。普通の転校生から、卒業生になり、普通に学区の中学校に進学した。

中学一年生の頃、普通の田舎の女として東京に憧れを持ったりした。ZipperとかCUTiEを読んで、オシャレや原宿に憧れた。竹下通りとか裏原通りとかでよくわからない古着を買い、オシャレぶっていた。今考えたらめちゃくちゃウケるが、そういうところがあった。あと、古着買っているようなサブカル気味の女が思っていたことにめちゃくちゃウケるが、将来、あの表参道を、高いヒールで歩くことが似合うような、そんな大人になりたいと思っていた。

二年生になると、完全にジャニヲタになったりしたが、まあそれも普通の中学生だったからだと思う。部活も、普通の学校生活も、べつに特に目立つわけでも地味なわけでもなく、普通にやっていた。正直、今の自分はその頃の自分が好きではないので、ほぼ記憶にないが、まあ多分普通の人間だった。

 

何が原因なのかわからない、もしかしたらその東京への憧れみたいなものがかもしれない、とりあえず三年生になる頃、進路を决める頃、絶対に地元で進学などしたくないと思った。別に地元に友達がいなかったわけではない気がするが、とりあえず地元の人がたくさん行くようなそこらへんの高校に行きたくなかった。最初は東京都内の私立に行きたかった。なので、全く進路が決まらず、とりあえず困っていた。今振り返ると、私はいつもそういう人生の岐路みたいな時期に、漠然とした目標しかないような人間だ。まあとりあえず、地元から出たかった。そういうところから虚無を覚えた。部活でコンクールに向けて頑張るみたいなことも、出て金賞が取れないことも、全く頑張れず、もちろん悔しくもなく、みんなが泣いている中でウケるなあと思っていたし、やっとこのクソみたいな団結力みたいなものを押し付けて来る部活という存在が終わるんだなあと思っていた。なので、引退後中三の体育祭の部活動リレーみたいなやつにみんな出ていた時も、文化部で、まじでなんの意味があってこの公開処刑みたいなものに出なきゃいけないのかわからなかったので出なかった。みんな出てたから応援席がガラガラになったのも覚えているが、公開処刑に出るよりマシだった。そういう感じだったけど、とりあえず通学30分くらいかかる県庁所在地の市にある高校に合格したので、よかった。それからほぼ、中学の人と関わらなくなったし、クラスの人とかほとんど覚えていないし、記憶が抹消されたので、学年の有名だったらしい人とか、全然知らない。

 その虚無は、記憶が曖昧なのではっきりとはわからないが、親との関係性も影響しているのかもしれないと思った。うちの親は厳しくて、言葉や力を使って、色々なものをねじ伏せられて来た。「よそのうちは知らないけど、我が家には反抗期などありません」と、なぜか鼻高々に宣言された思春期を過ごした。私は末子なので、姉に比べれば完全にマシだったが、そういう感じの家だった。そういうことを言う親の元で育った結果、変に穿った見方で親子関係を見つめ始めた。私が親に諦めを覚えたのは思春期真っ只中のこの頃で、怒られたり大きな声を出されたり殴られるのも嫌だから、とりあえずハイハイと言い、お望み通りに反抗期が特にない人間になった。面倒な人間には、真正面から対処をしないようにするのだと決めた。なので、親にいちいち反抗する姉のことを「頭悪いのかなあ」とか「まじ迷惑だなあ」と思っていた。これは親のせいだけではないけど、私は完全に姉を舐めきった人間になったし、前よりはマシだが今でもそんなに仲良くない。そんな感じの家族関係なのも、もしかしたら地元が好きではないことに関係しているのかもしれない。

 

幸い、高校時代に虚無を感じた記憶はない。実際はあったのかもしれないけど、風化されたのか、他の楽しいことが山ほどあったからよくなったということにしておく。地元から少し離れた生活をした経験により、私の中で地元というものへの嫌悪がもっとひどくなり、絶対にここから出て行きたいと思うようになった。

 

再び虚無を感じ始めたのは大学受験で、私は絶対にここで家を出ると思っていたのに、親はそれを許さないと常に言っていた。「通えるよ」と言った。そりゃ一都三県の一県が出身地だが、通えるわけがないだろうと今でも思う。受験生の期間は、普通にとりあえず頑張っていたけど、最後の一ヶ月で完全にやる気が失せ、当然に第一志望は受からず、適当に受かったところに行った。県を二つまたぐ大学なのにもかかわらず、通えると言われたので、通いになった。最初は普通に頑張っていたが、途中また虚無を覚えて、普通に頑張ることができなくなり、めっちゃ笑える話だけどクローゼットの中に引きこもったりして、大学を辞めて留学することにした。

 

親に感謝しているのは、海外留学のお金を出してくれたことで、予備校のお金も大学一年の学費も無駄になったけど、留学させてくれたことだった。絶対に地元や実家から出たい人間が、やっと出られて、ハッピーだった。そりゃあ辛いことも山ほどあったけど、元の生活を死んだかおをしながらするよりも、よっぽどマシだと今でも思う。

 

そういう感じで、適当に生きてきたので、虚無を感じるのは当たり前だと思う。普通の人が、普通に頑張れるようなことをウケると思って受け流し、ウケるウケるで済ましてきた。それで今、再び虚無を感じて生きている。今までと違うのは、私にはもう選択肢が山ほどある人生ではないということだ。高校受験の頃や、留学をした時のように、人生の岐路に立つことなんてもうないと思う。それに目標もないし、生きてる意味もないし、希望がない。目標があれば、それに向かって頑張れるのかもしれないけど、そんなものはとうの昔に消えた。みんながみんな希望があって毎日楽しく生きているわけじゃないのはわかってるけど、そういう共感や説得が欲しいわけではない。親によく「優しさのカケラもないし、適当だし、感情というものがないのか」と言われるが、彼らがないと思うならないんだろう。そういう反論をするほどの力もないし反論するのがまず無駄だと思っている。もう10年以上、私はそういう人間だからだ。中学の頃の記憶がないとか言ってるくせに、色々覚えていると思うかもしれないが、私にはそういう、虚無を感じたことは記憶に残るらしい。私が虚無を覚えてからの記憶は、その辛い記憶と、高校時代楽しかったということくらいだ。

 

この先にあるように私に見えるものは、この虚無から抜け出す力ではなく、このままなんとなく生きて、虚無を感じつつ死ぬ自分だ。